杜国は、通称を坪井庄兵衛(つぼいしょうべい)といい、名古屋の御園町で壺屋(つぼや)という米穀商を手広く営む傍ら、町総代をも勤める豪商であった。
 貞享元年(1684)芭蕉の「野ざらし紀行」の帰途、名古屋で作られた連句集「冬の日五歌仙」作者の一人として加わった杜国は、尾張俳諧の重鎮としてその名を馳せていたが、貞享2年、ご法度(はっと)とされていた米延商(こめのべあきない)(空米売買(からまいばいばい))の科により、家財没収のうえ所払(ところばらい)いとなつてこの地、畠村(はたけむら)に移り住み、程なく保美(ほび)の里に隠棲(いんせい)することになった。
 夢にまで杜国を見て泣いたというほど杜国の天分を愛した芭蕉は貞享4年10月、「笈の小文(おいのこぶみ)」の途中、鳴海(なるみ)より門弟越人(えつじん)を伴い、愛弟子(まなでし)の悲境を慰めようと二十五里の道を引き返し、保美の閑居(かんきょ)に杜国を尋ね得た。再会した師弟がそのとき詠みあったのが、この三吟の句である。

  麦生(むぎは)えて能隠れ家(よきかくれが)や畑村(はたけむら)   芭蕉
  冬をさかりに椿咲く也(つばきさくなり)    越人
  昼の空蚤(のみ)かむ犬の寝(ね)かへりて   野仁(のひじん)(杜国)

 翌日杜国の案内で同行三人は、伊良湖崎に吟行(ぎんこう)の杖(つえ)をはこんだ。芭蕉の名句「鷹(たか)ひとつ見つけてうれし伊良湖崎」は、このとき詠まれたものである。
 翌年、二月、杜国は伊勢に渡り芭蕉と落ち合い、吉野の花を愛(め)でた後、各地を吟行し五月にこの地に戻ったが、二年後の元禄三年(1690)三月、望郷の念と吉野の思い出を胸に寂しくこの世を去り、潮音寺原に葬られた。行年三十余歳であった。
 現存の墓碑は没後五十四年の延享元年(1744)に建立されたものであり、師弟三吟の句碑は、杜国を慕う地元の有志により明治二十八年(1895)に造られたものである。